2010年02月20日

今日は私の来日21周年の日

 21年前の今日は、私は北京から成田空港へ飛行機で向かいました。飛行機に乗るのは初めてで、当時59歳のお父さんが私を見送ってくれました。

 そのとき、中国の学生民主運動が高まり、後に世界に知られる天安門事件に繋がりました。一方、日本では、プラザ合意の翌年であり、円相場はじりじりと押し上げられていました。初めて日本の地を踏むとき、私はほかの中国人と同様に、この中国の近代史に大きな影響を与えている国に、新鮮感でいっぱいでした。とにかく日本がすき、日本のすべてがいいと極端に思いました。今考えてみると、タイムマシンに乗って自分より50年も先の先進の地に到達したような喜びさでした。当時の日本人は表情が豊かで、日本が世界における高い地位に誇りを持っていました。私にはとてもうらやましいものでした。失業なんていうことばは、みんなが知らず、仕事は3K(汚い、きつい、危険)に関係したら、日本人はやらず、私たちのような外国人が従事していました。一日1万円以上の、私たちにとって、夢のような稼ぎでした。日本語学校では、背の低い男性先生は国内で嫁をもらえず、フィリピンから若くてきれいな奥さんと結婚。日本人同士に白い眼で見られていた彼は、私たちアジア人留学生の前でえらそうな態度を取っており、よく口にする言葉は「日本人はどれだけ金を持っているのか、日本のごみをみてみな」でした。

 そして二十年後、私は幸せな家族をもち、豊かな人生経験をもつことになり、本当に日本にお世話になり、日本人の中の国際意識豊かな人々に感謝でいっぱいです。

 私は約10年間海外駐在を経て、一昨年静岡県に帰任してきました。しかし、この2年間日本、引いては、静岡は、大きく変わりました。市場は大きく凋んで、町には、まったくないと言っていいほど、無表情の人ばかり集まっています。会社でも、社会でも、人々は手の中の携帯電話ばかりに集中し、まともに人の目線をみて、話はしない。みんなから「今の日本に余裕がないんだ」とばかり聞きます。私が勤めている県内の優良企業でも、面頭に向かっての会話が少なく、電子メールによる交流がほとんどです。一方、国会では、党派は互いに責め合ったり、これから一緒にどう問題を解決していくかよりも、相手にどう責任を取ってもらって、やめてもらうかに総精力を集中しているように感じます。

 日本がすきな私にとって、大変戸惑う2年間でした。私が熟知している日本は、ますますわけがわからなくなってきて、最終的に、会社に辞表を出して、中国へ帰ることにしました。日本への感謝、日本への思いは、中国に戻っても変わりませんが、日本人の中から、思い切って行動でき、弱い国を安易に軽視しないような国際的なセンスを持つ偉大な人の出現を遠い中国の地で心から祈ります。




Posted by 在静華人 at 11:06│Comments(0)
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